|
夜空に浮かぶ月は、眩しいほどの輝きはないが、誠に円やかで麗しい光沢を醸し出しております。
十五夜の月などを見ていると、荒ぶる気持ちが凪いでゆくようです。
その笑顔(月光)は変わりなく、悠久なるロマンすら感じるものです。
月齢は変わりゆけども、いまだかつて月じたいが欠けたことは一度もありません。
半月、三日月、新月と、姿は変えようが、月の本体が形を変えたことは歴史上一度もないのです。
太陽と地球と月の位置が天文学的に変化して、欠けたように見えているだけのことです。
繰り返しますが、月じたいは決して欠けたりはしない…。
このことは人間の実相(本来の姿)にも当て嵌まります。
本来の人間は、大生命の枝分かれとして尊い命の継承を受けている存在です。
ゆえに本来の人間は、魂の善価が欠けたことはなく、その本体は光り輝くダイアモンドの如く、穢れない純心純白な素地を持っています。
しかし人間の心は激しく揺れ、転生とともに汚れたり堕落したり…を繰り返しています。
これは本来はダイアモンドの原石でありながら、各種の経験を通し、体験を積むことによって、後々染み付いたゴミやホコリが、ダイアモンドの価値を低下させているように見えている…。
汚れているものはゴミであり、チリやホコリであって、ダイアモンドそのものではないのです。
しかし人間は、こびり付いたゴミやホコリそのものを、いつしか自分自身だと思い込んで、その清掃をしなくなりました。
取り除けばいいのです。
拭き取ってキレイに磨けばよいのです。
この清掃・浄化にあたるものが、自己反省や禊払い、心の浄化であり、それを地道に行うものが徳性開発であります。
長い人生だからこそ、時には心も乱れ、時として淫らに取り乱したりするかもしれません。
そうした時に、空に浮かぶ月を見上げてみて下さい。
もしくは満月の姿を想い出して下さい。
あの円やかな満月の柔らかさ、清らかさ、美しさを想い出して下さい。
そしてその満月を自分の胸の辺りにも湛えて、そこに角のない円いお月さまが存在するとイメージしてみて下さい。
こうした円やかな心が、自分の本来の姿だと自分自身に言い聞かせて下さい。
それによって荒ぶる気持ちは徐々に凪いでゆくでしょう。
他人の過ちを許せないのは、その罪を何時までも自分の心の中に長居させるからです。
善悪の判断は早々としなければならないが、その事実を長年連れ添う必要はないのです。
昔の逸話で、二人の旅の修行僧が、とある大河に差し掛かったところ、うら若い女性が増水した川を渡れなくて困っていたのです。
その時に修行僧の一人が、心からの善意で女性を背負って川を渡り、困っていた女性を川向こうまで運んであげたのです。
そうして彼はまた修行の旅へと歩き始めたのでした。
それを見ていた、もう一人の僧が言うには、私たちは修行中の身でありながら、女性の身体に触れることは不謹慎だと怒ったのです。
しかし女性に善意を施した僧は何食わぬ顔付きで、不謹慎だと怒った僧に…。
『おまえはまだ、あの女性を心の中で背負っておるのか。 私はもう背負ってはいないぞ…』
この逸話は現代の心の教えにも十分に活用できそうです。
淡々と善意を施して心の重荷まで降ろした僧と、女性を自分では背負ってもいないのに戒律に拘って何時までも心の中に女性を背負っていた僧と、この二人の心の状態は天地ほどの開きがあるのです。
『罪を憎んで人を憎まず…』
相手にも人生があり、人間関係があり、相互の影響もあったはずで、罪を犯したくなくても、何かしらの強迫観念に苛まれて犯してしまった罪もあるのです。
罪作りの大罪に気付かない社会風潮の中で、本当は被害者でありながら、心の弱さゆえに間違った行動を起こしてしまって、いつの間にか加害者の立場に立ってしまった罪人も多いと想います。
満月の円やかさは心に静寂を取り戻し、自身の本来の優しさを呼び戻し、罪作りの大罪の罠に追い込んだ本来の加害者、そして追い込まれた本来の被害者の心根を許すことが出来るでしょう。
社会的な罪過の基準と表裏一体となって、実霊的な罪過の基準もあることを知る必要があります。
|