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ここに万引きをした少年Aが居るとしよう。
少年Aは小物を盗んで現行犯で捕まった。
警察に引き渡された少年Aは、取調べを受ける間に、他の少年Bに脅迫されて、しぶしぶ犯行に及んだと自供した。
彼は少年Bからイジメを繰り返されたあげく、小物を盗んでくるように脅されたという…。
この場合の実行犯の少年Aと、万引きを強要した少年Bの、どちらの罪が重いであろうか…。
少年Bは一人っ子で甘やかされて育ったが、彼がまだ幼い頃に両親が離婚をして母方に付いた。
母親は直ぐに再婚したが、新しい父親は子供嫌いで、少年Bをよく怒鳴り、家庭内暴力が絶えなかったようだ。
現在の少年Bはまだ12才である。
この場合、誰が最も罪が重いであろうか…。
また少年Bの新しい父親は、仕事では優秀な人材であったが、心無い同僚の反感をかって、職場は勿論のこと家庭にまで嫌がらせが続き、いつしかノイローゼ気味となり、ついに鬱病の烙印を押されて退職に追い込まれたようだ。
気持ちに余裕など持てないまま、少年Bに対する家庭内暴力は激しさを増していった。
この場合、いったい誰の罪が最も重いのであろうか…。
最初に出した(万引きをした)少年Aは、性格の弱さゆえに少年Bからの脅しに屈して犯行に及んだのである。
少年Bは新しい父親から毎日のように暴力を振るわれ、その捌け口で少年Aをイジメの対象にしていたのである。
また新しい父親の職場では、手段を選ばぬ出世争いが存在していたのである。
罪というものも、かくのごとく伝播するのである。
罪の連鎖は家庭や職場での身近な人間関係の中で陰湿に巻き起こされるからこそ、断ちがたい強固な鎖で繋がれているのである。
罪の中で最も重い罪は、罪作りの大罪である。
実行犯は罪を犯した罪過を背負わなければならないが、彼をそこに追い込んだ黒幕たちは、今も平々凡々と何食わぬ顔付きで生きているのである
この話は一つの例としてお話したわけであるが、これに類似した話は世の中に氾濫している。
しかも身近な問題として誰もが影響し合い、その一役を知らず知らず担っているのである。
本来の罪とは何であろうか…。
人が、たった一人で気儘に生きているなら、そこに生ずる罪は皆無に等しいが、複数の人間どうしの暮らし、生活を通して接する人間関係が複雑になればなるほど、罪が生ずるポテンシャルも増してくるのである。
自分の言動が、自分では自覚のないままに、誰かの人生を狂わしているかもしれない。
この知らぬ間に起こされる罪の根本原因は、出所に近いものほど些細なものかもしれないが、その罪の連鎖が末端にまで届く頃には、えてして社会的問題となっているのである。
日本の政局においても、総理として立つ人が、他の政治家たちの批判悪口を浴び、マスコミまでそれに同調して、まるで一国の主を容疑者のごとく取り扱っている…。
しかし更にこのメディアを面白がって遠巻きに見ている視聴者が多いのも事実である。
この視聴者たちは、現代という社会風潮が育てたわけだが、こうして元を辿ると、罪の根本は徐々に見えなくなってしまう…。
なぜなら本当の罪の根本原因は、人間の心の中に存在するからである。
それが『疑心』であり『憎悪』であり、『嫉妬』や『怨恨』であったり『渇欲』『物欲』『損得』『優越』『羨望』…。
数えあげればキリがないが、これらに共通するものは、すべて自分の外に不足を求める思いなのである。
そこに他者との比較が始まり、比べられた幸せの違いに憂慮する結果である。
本来は、人間は神の子であるがゆえに、すべてのものは自らの内部に具わっている…。
その自己内部の宝庫を開けばよいが、この愛と智恵との宝庫を包み隠す思いが邪魔をしているのである。
つまり罪とは、本来の人間の神性を包み隠すことであり、この包み(つつみ)の『つ』の字が約まって『つみ』と言われているのである。
この『つつみ』を取り除いて、その内部にある神性を開花させれば、愛と智恵が枯れることなく無尽蔵に溢れ出すのである。
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