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【う】
嬉しさを 包み隠さず 裏表 |
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対人関係に於いて社交辞令の如く、本音と建前は社会通念としても使い分けられてきました。 これによって隣家間での程良い繋がりを保ってきたはずです。 その社会人としての繋がりが崩れてきたのは、個別主義による人権尊重(この場合は利己心保存)と自由主義による自己主張尊厳が人間観の中に幅を利かせてきたからでしょう。 一時流行った青春ドラマでも、建前を嘘偽りとして本音で語ることを良しとしたものが台頭しました。 心の中が同水準で綺麗な人ばかりであれば、本音だけで語ることは何も問題ありません。 しかし他人を憎んだり恨んだりして、心の中に憎悪が渦巻いている人達が本音だけで生きたならどうなるでしょうか…。 このような人達は現在の世界情勢を見れば、戦果の中にその身を置いています。 しかもその民衆の中でも、本心から信じられるのは自分一人で、偽りの団結には恐怖と戒律が楔になっています。 人間という生き物は、心の中に善意も悪意も同居させている…。 これは世界的な聖者でも同じでありますが、彼らが聖者と言われる所以は、その悪意を自身で見い出した瞬間に直ぐさま神に祈り(謝罪をして)心を悔い改めるところにあります。 ましてや一般人であれば一日24時間、心の針が指し示す方向に感情が片寄り、気分の良し悪しによっても感情が変わってくるのです。 これはもう正直に言うなら、性根からの悪人は居ないが生粋の善人も居ない…と言うことです。 感情の起伏は天候と似ていて、終わりのない嵐は無いが、永遠に続く日照りも無いのです。 隣人(他者)への配慮を心掛ければ一時期の不調はお互い様で、現在は不穏な関係でも心境が戻れば本音で語り合えるが、相手の気持ちに整理が付くまで待つということも必要なのです。 そうした社会秩序や調和維持には、お互いの神性を貴び合う心(むすび)が根底にあるべきで、そこに展開する建前は相互理解が基になっている。 だからこそ本音であれ建前であれ、心から明るく素直に接することになります。 |
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