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041 捨てきれぬ性悪説 |
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今回は疑心暗鬼について幾つかの見解を語ることになります。 人は何故、他人を疑うのか…。 そのまま素直に信じることは確かに危険を伴なう場合もある。 疑うことが慎重さの証のように教えられた人も居るでしょう。 この場合は疑いではなく再確認であります。 人間は完璧ではないからこそ様々なドラマが生まれるのです。 大切な顧客を持つ企業は、お客様に不具合があってはならないので二重チェック三重チェックを行うのでしょう。 これは同僚部下への疑いと言うよりは相互救済とも言える助け合いであります。 しかし世の中には頭ごなしに疑いを掛ける人間も存在します。 誰も見ていなければ、気付かれなければ何でもあり…の迷妄者も一社会人として共存している。 彼らの疑い心は性悪説に裏付けられた個別分断思想が心の中に隠れています。 対局する性善説も性悪説も、何方かに片寄れば偏見となります。 本来の人間には自由意志があり善にも悪にも関わる自由がある。 しかしこの自由意志には総てに於いて責任が伴ないます。 選択の自由は、その後の運命を総て受け入れる義務がある。 そうした観点から性善説・性悪説を垣間見れば、何方も正しく何方も間違いとなるのです。 総ては魂の傾向性が先導役として引っ張るので、性悪説に拘る人間の魂の傾向性が悪に片寄っていると言うことです。 邪見は外部にある訳ではなく、邪な見方をする人間の内部に潜んでいます。 そこには複雑な感情が毒を撒き精神世界に暗雲を涌出させている。 人々が性悪説を捨て切れない理由は、他者との比較対象に於いて利得(私利私欲)に絡む思いが捨て切れないからであります。 対比競争の中でしか自分の才能を誇示出来ない人は、常に周囲を蔑み、自らを優位に立たせることでしか幸せを感じられないでいる。 性善説も性悪説も、論説としては優れた解釈が成されているため、今後も度々人々の話題に挙がるでしょう。 それでも性善説・性悪説の両派を大きな視点で包括する生命真理が存在することを、貴方も忘れないで生きて致だきたい。 |