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006 固定観念と意識散漫 |
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本来は自由自在であるはずの心を、社会通念(衆知基準)に合わせて主体的に微調整するのが、社会人としての務めであると語りました。 この主体的な微調整が必要な理由は、社会通念(衆知基準)そのものが時代と共に変転するものであるからです。 社会制度が変わり、科学技術が進化したなら、社会通念も当然のことながら変化を遂げるのです。 戦時中と戦後では人間としての価値観が表裏の如く変わったはずです。 社会主義が資本主義に変われば制度も変わり、社会通念も変化して人間同士の関わり合いにも違いが出てまいります。 環境や境遇の違いは人間感覚にも変化を要求して来ます。 人間側が時代の変化に合わせて心を微調整しなければ、そこに突発するものは古き習慣と新たな習慣との相剋であり、双方が互いに譲り合うことなくば、再び戦争が起き兼ねないのが現代の社会情勢であります。 人類が恐れなければならないものは国家レベルの固定観念である。 民族固有の文化や社会制度を強く信奉することで、他民族の宗教や文化などを否定する固定観念は恐怖以外の何者でもありません。 こうして固定観念を国家レベルで打ち出す社会は孤立する運命にあります。 こうした危険な状況は長い年月を掛けて出来上がった社会通年ではありますが、それと同じような理由で個人レベルに於いても固定観念の魂の固着は起こります。 むしろ個人レベルでの固定観念が解放されれば、それが大衆意識を変化させることもありえますが、そこで通らなければならない関門は古き習慣に対する新たな習慣の挑戦と応戦でありましょう。 ここで両者が歩み寄る心の余地が無いならば、分裂闘争の歴史を今後も引きずるだけであります。 こうした複雑な世の中になると、難しく煩わしい社会から意識逃避する人間も増えてまいります。 無意識・無関心・無意欲は、国力を弱体化に向かわせる意識の散漫化である。 何れにしても心の統制(微調整)が出来なければ、人類の未来には分裂闘争の歴史が繰り返されるのであります。 このように心の法則は個人レベルに於いても国家レベルに於いても同質の作用があるのです。 そうであるのなら個人々々が心の法則を真摯に学び、人生に生かし諸生活に活かしながら、徐々に社会貢献して行くことが望まれるのであります。 |