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060 人の不幸は比較から始まる |
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本来の人間は幸せな人生を送ることが出来るように創造されたのです。 常に大いなる意識に生かされ満たされ導かれた存在が人間である。 更に人を幸せにするものが自由意志であります。 個性としての幸せを主体的に追及することが出来ると言うことは、この上ない幸福であるのです。 しかしこの自由意志が時に人を不幸にすることも事実です。 創造主が人間に与えた自由意志は固定観念ではないため、人間の選択肢は善にも悪にも心の針を向けられます。 善も悪も選び得る自由がある中で、自主的に善を選択するところに人間存在の徳性(神の子の自覚)が深まるのであります。 大抵の場合は人間の不幸は他者との比較から始まります。 その比較(相対性)は自分が基準であると痛手も大きくなります。 他者との比較をするのであれば自己基準比較(相対性)ではなく、客観基準比較(特殊相対性)で大要を観るべきである。 1ポイントだけクローズアップして不幸観念を引き摺るよりも、長いスパン(時の流れ)で大局を見渡す慧眼を育む方が、人間の魂は光に向かって正しい生長をする。 自分の利己的基準点で物事を見ている間は、視野は狭く見識の薄い人生に成りがちであります。 どうして人は自分に拘るのか…。 それは人間が地上世界完結の生き物だと洗脳するような情報が、地上世界には頻繁に飛び交っているからであります。 その刹那を美化するかのような情報が死後の世界(本来の魂の故郷)を取り込んだ人生を想起し辛くしているのが現状です。 この世で幸せに暮らせない(自発的に幸せに暮らそうとしない)人間は、あの世(霊界・魂の故郷)に帰っても幸せにはなれない。 この世で心の安住を構築出来なければ、あの世でも心の安住を望めないのです。 霊界は心の世界である。 現在只今の地上人間が心の中で最も多い領域を持つ思念想念を確認(現状把握)すれば、それが天国に帰った後の自分の姿を物語っているのです。 心の中は他人から見えないからと自分勝手な何でもありの思考を繰り返していると、その不本意な訓練(繰り返し)は何でもありの魂の傾向性に固まり、それこそ何でもありの横暴無謀な霊世界に引かれるように赴くことになります。 何でもありの横暴無謀な世界は何処でしょうか…。 自分勝手な自由と利己的自由が相剋する世界を客観的に観れば地獄である。 我欲や我執に凝り固まる霊人は、同じ波長を持つ我欲我執霊が集まる霊世界に引き寄せ合うのです。 これも因果の理法(心の法則)であります。 |