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089 想い遣りの無い独り善がり |
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人間の意識は善にも悪にも自由自在に心の針を指し示すことが出来る。 選択の自由は個性ある人間が操り人形ではないと言うことを証明しているのです。 そうした自由選択の中で自らの意志によって善を採り愛を行ずるところに、人格者としての徳性が身に付くのであります。 ここで善とは何か、悪とは何か…という問い掛けが起こります。 何処までが善で、何処からが悪なのか。 この線引きは実は人間が行っているのです。 社会人としてのルールは法によって規制されるが、この法は各時代背景を色濃く反映しています。 人心が定まらず事件や犯罪が多ければ法(取り決め)も複雑に成らざる負えません。 社会人として法を守れない者には罰則を用いることも、秩序社会の維持継続には欠かせないものとなっております。 法の網に縛られた世界で、社会人としての仕事や生活を営んで行くしかないのです。 しかし現代人の法の根底にあるものは性悪説であります。 人間というものは放っておけば悪事を起こし兼ねないという前提の下に各種の法は整備されている。 はたしてそれで良いのか否か…。 人間性は努力精進によって高まるものであると言うことを受け入れられないのは何故なのか。 それを受け入れたくない心情は何なのか。 そろそろ心の世界に光を投じて再確認しなければならないのです。 誰からも見えないからといって行われる自分勝手な悪意を放置すれば、性悪説は人間存在の根幹と成らざる負えません。 誰にも知られなければルールを無視して何でもあり(これくらいは良いであろうとの解釈)の人生観は、魂の傾向性を人知れず歪ませるものであると言うことをナゼ気付かないのか…。 そこには気付かない利点があり、気付きたくない理由が隠されているのです。 徳性開発は心の暗部に光を投じながら、精神世界に蔓延る思念想念の腐敗を清掃浄化する作業を基礎精神として育むものであります。 これは性悪説の如く誤解している表面意識の奥底に佇む、本来の人間存在(神の子としての生命の実相)を肯定する為の作業であり、善にも悪にも自由に自己展開出来る中で敢えて善を採り愛を行ずる魂の傾向性を育む作業でもある。 また利己的感性に落ち込み易い物質文明の集積知に依存すれば、性善説は独善に走り兼ねない危険性を看破しなければならない。 性善説も性悪説も何方かのみに偏れば独善悪視の罠に嵌まります。 想い遣りの無い独り善がりは独善悪視への迷走であります。 |