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009 無に対する誤解 |
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感覚感情の中には人間の情緒を豊かにする機能が具わっています。 人間味のある生き方は多くの共感を得るであろうし、人格者が持つ人情は後世の人々に喜んで模倣され親しまれる。 この人間にとって大切な感覚感情を放棄する人、歪めて解釈する人も世の中には存在するのであります。 失望怠惰はその極致であり、自身の過去に落胆し、現在只今に興味を失い、未来へのビジョンが描けぬ状態で心の扉を固く閉ざす。 まるで街灯の無い夜道を一人で歩いているような心細さです。 こうした人の特徴は思考を停止した状態で何も成さざる自分自身に慣れ親しんでいる…。 本来の人間は自然に生きているだけで、魂の生命力が心の内部から溢れ出してくるのです。 その溢れ出す生命力が、上手に言葉では表現出来なくとも、日々の遣り甲斐や生き甲斐となって本人の性格を明るくするのです。 こうした情感に満たされて生きる姿が最も人間の自然な生き方である。 失望怠惰に嵌まり込む人たちは自ら心の扉を閉めきるために、魂の生命力(湧出)が閉ざされた状態にあると言うことです。 ここには大きな誤解が隠れています。 それは何も考えず何も成さざる状態を安住地だと思い込んでいる。 これは他人も自分も傷付けたくないがために身に付いた一種の自己防衛かも知れません。 つまり人生を生きる上で人間としての辛さを知るからこそ、自らの意思で隠れ蓑に身を沈めたのであります。 習慣は安住の地を作り、危険時の逃避場所として無意識空間を利用するのでしょう。 それが心の待避所であるのなら、むしろ人間としての尊厳を守るために有用かも知れません。 しかしそこが安住の地として定着してしまうと、人は失望怠惰の温ま湯から出られなくなってしまいます。 習慣は使い方を誤ると魂の堕落に繋がります。 慣れ親しみは時に足枷となって、人間の生長を妨げる壁として前途を立ち塞ぐこともある。 日々の習慣化は突き進む方向感覚が命であります。 失望怠惰は魂を腐らせ、悪思念の住処を提供する危険な習慣化であります。 何も無い状態を心地良いものと誤解しないで致だきたい。 人間の生命は静ではなく動であります。 常に心の内部から止めどなく溢れ出す生命の泉は、無尽蔵(決して尽きることのない)生命力であるのです。 |