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013 執着は味わいの追求
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次に一次元意識の人間が凝り固めた感覚の三つ目は味覚であります。 味覚とは味わいであり、趣味趣向の判別機能でもあります。 人間は味わうことで好き嫌いを区別しています。 この味わい方に個人差がある。 表面的な味覚の良否で善悪を選り分けている人もいる…。 時間を掛けて深く味わいながら真価を判断する人も居る…。 その浅はかさや深みには人それぞれの個性が現れやすいのです。 個性は性格の表現形態であり、性格は日々の心の集大成である。 味覚の違いは人格の相違であり、感性の違いは霊性の相違であります。 好き嫌いの感情が先走ってしまうと只それだけで相対的な感覚は無に帰すのである。 本来は共通認識を得るために与えられた感覚意識を磨かぬ内に、徐々に鈍った感覚は薄っぺらな自己主張に操られて、味わいの濃薄や筮竹の明淡が理解出来ない薄情者になってしまいます。 こうした薄情者に他者の気持ちなど分かる筈もなく、物事の真価を見分ける力もなく、直接的に自分が感じる痛みや苦しみのみに敏感となり、リアルタイムに自分だけが感じられる喜びや楽しみにしか興味が沸かなくなるのです。 こうした魂の傾向性を持つ者が、一次元意識に自ら留まる自己限定型人間であります。 感覚は使い方を誤れば執着となり不摂生となりますが、扱い方を工夫すれば豊かな精神を構築することが出来るのです。 特に味覚は日々の生活に密着して対面するもので、地上世界に生きるからには避けて通れない感覚であります。 この味覚を含めた五官の感覚を、かつての宗教家たちは人心を迷わす執着として排除する修行を行いましたが、もともと排除しなければならないものは執着に惑わされて深みに嵌まる自己自身の甘えや失望怠惰の方であり、感覚意識そのものには一抹の罪も無いのです。 つまり執着は行き過ぎた味わいの追求であり、自らの意志(徳性)で調節出来なくなった人間の憐れな末路であります。 |