022 思念は想念の義兄弟

 

 

思念というものは自己を中心にして思いを廻らすものである。

そのため主に自己反省をする際に用いるべき意識であります。

自分で自分の言動の良否を確認する為には、正しい客観視を磨かなければならない。

客観視とは第三者的視点であり、自己限定の殻を打ち破った本来の魂の霊眼であります。

此処には実力の差が現れるのです。

自らの意識を外部から眺めると言うことは、自分の守護霊の視点に立つと言うことです。

つまり自らの肉眼で見える範囲は自己認識(自我)での確認作業でありまして、自分で自分の所業を見つめることは難しいのであります。

人差し指は上手に相手を指摘(指し示す)することが出来るが、自分で自分の指を指摘(指し示す)することは出来ません。

現象的な肉眼の目(意識)では自分の言動は見えない(気付けない)のです。

これは霊的な瞳を開花させて慧眼を増して行かなければ(磨いて行かなければ)真実は観えないものなのです。

現実的思念は思念を越えられない。

霊性を開いてこその正しい客観視であります。

現代人の多くが自己反省が苦手な理由は此処にあります。

正しい自己反省が出来ないと、思念(自己認識)を越えた想念(他者の気持ち)が理解出来ないのです。

思念と想念は同じ人間が使い分ける意識であり、自分を中心に物事を考える思念に対して、想念は相手の気持ちを中心に物事を考える意識段階であります。

同じ人間が扱う意識(思念・想念)ではありますが、全く違った性質を持っているのです。

それは一家族でありながら本来は義兄弟であるような感覚かも知れません。

しかし同じ家族であるからこそ家主自らが本当の兄弟として使い分ける必要がある…。

そのためにも思念(自己認識)を正しく見極める必要があるのです。

これが出来ない(反省回顧が出来ない)人間は一次元意識(自己限定の殻)に閉じ篭もったままの精神状態であると言うことです。

 

 

 

 41 むすび大道 【自己確立編】 一次元