026 偏見癖に繋がる思念
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同じ思念の積み重ねが悪習慣を常態化させた原因でありました。 また自らの言動を顧みることもせず利己的思考の衝動に負けて、反省回顧を放棄した心(一次元意識)が、悪しき魂の傾向性を形成した主原因でありました。 どのような習性が魂に滲み付いたとしても、神の子の自覚さえ見失わなければ生命の実相(純粋個性)に立ち返ることが出来るのです。 しかし自らの言動を顧みることが出来ない人間は、自分の習性が歪みつつあることに気付けないのです。 何時までも片寄った性格には気付かず、何処までも片寄った自分を真っ当だと勘違いをして、周囲の人々が間違いだと決め付けたまま、自らの悪意識に気付かないのであります。 このようにして偏見が生ずるのであり、何時しか偏見は習慣となって、意図するしないに関わらず片寄った思考を強行する一次元意識人間と成り果てるのであります。 こうした人間(一次元意識)に足りないものは客観視であり、脚下照顧(足下を照らす)の習慣である。 偏見癖は歪んだ思念(一方的な思考回路)を重ね続けることで形成されるのです。 この偏見癖を本人が見破れない理由は、心に五毒(我欲…欲しがる心、欺瞞…偽る心・愚弄…辱める心・下劣…淫らな心・傲慢…奢る心)を溜め込んでいるからであります。 五毒は心を蝕んで、自己陶酔の魔の手に魂を売る愚行である。 酔っ払いには常識に乗っ取った説得が効かないのです。 自分こそが解答であるかのような錯覚を何時までも心に掴んで放さないのです。 その恥ずかしい醜態に自ら気付く為には反省が出来る人間になるしか手立てがないのです。 個性の自由意思を持った人間であるからには、自らの言動を顧みる習慣を自発的に発揮しなければならないのであります。 人間の証明は個性の開花であり、そうした人間の責任は因果応報を受け入れる潔さであるのです。 偏見癖に気付けない人間は、ただそれだけで未だに一次元意識の殻(隠れ蓑)の中に身を埋めた、幼い魂の段階にあることを知る必要があります。 |