027 得意なレッテル貼り
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人間の証明は個性の開花であり、そうした人間の責任は因果応報を受け入れる潔さであると言うこと。 また偏見癖に気付けない人間は、ただそれだけで未だに一次元意識の殻(隠れ蓑)の中に身を埋めた、幼い魂の段階にあると言うこと。 更に個性の自由意思を持った人間であるからには、自らの言動を顧みる習慣を自発的に発揮しなければならないと言うことでした。 自らの言動を顧みることもせず、他者の失態ばかりを指摘していては、永遠に一次元意識の殻(隠れ蓑)の中から這い出すことは出来ません。 そうした人間(一次元意識)は自らの汚点を認めようとしないため、自分の間違い(歪んだ魂の傾向性)を修正することをせず、進んで周辺汚濁の愚行を演ずるのであります。 あの人の方が自分より酷い性格である…と。 あの方の方が、もっと脆弱な人間である…と。 周囲を汚すことで自分の汚点(醜さ酷さ)を目立たなくするのです。 誠に自分勝手な言動が多くなる。 こうした悪しき習性は本人の自尊心と優越感が相俟って、日に日に歪みが深刻な状態になるのであります。 このような悪しき習性を何時までも放置せず、小さな反省(軌道修正)の繰り返しを魂の傾向性として常態化しなければならない。 心の弱き人間は他者に対してレッテル張りを行うのである。 レッテルとは決め付けであり、相手を低比な型に嵌めて蔑みながら、自己自身のみを優位な立場に置こうとする愚行である。 このような性質が一次元意識の殻の中に閉じ篭もった隠れ蓑人間には顕著に現れるのです。 またレッテル張りは其のままイジメやパワハラに繋がってしまいます。 こうしたことは相手の気持ちを考慮しない人間(一次元意識)の心の習性(憐れな姿)であります。 誰かから自分がされたくないことは他者にもしてはならないのです。 自分の心の痛みと同じ苦しみ悲しみを他者にしてはならないのです。 こうしたことに気付けない人間こそが一次元意識人間であります。 何処までも我が道を行くゴーイングマイウェイの独断バージョンである強引我道(ゴウインマイウェイ)であります。 |