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045 知ることは学問である
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知識には見ることで認識する見識があり、良し悪しを判断する良識があり、広く豊かな識別を可能にする博識があります。 博識は経験値に基づいた精神的糧であり、良識は知恵を駆使して善果を得るための知性の証明である。 しかし見識は見たままを判断する識別手段で、其処にはまだ知性は存在していません。 それでも見識は本人の魂が生長する毎に見方や感じ方も精度を増して行きます。 しかし単に知るだけでは知識の域を越えては行けないのです。 知識が知恵となる為には、其処に吟味(推測・洞察)が必要になるのです。 しかもこの吟味には本人の努力の度合いに兼ね合った実力の差が現れるのです。 吟味が利己的推測や我欲的洞察になっている人間も居る。 その場合の知識は一次元意識としての自己限定の枠を越えられないのです。 利他的推測や愛他的洞察であれば知識は知恵となり智恵となって、知性は叡智へと繋がって行くでしょう。 こうした見地から知識を見渡せば、知るということは未だ学問の域を越えていないと言うことです。 それでも人間は学びという機会を得て、様々な知恵を身に付けるのであります。 経験や体験を通さなければ知識を得られない訳ではなく、他の誰かが残してくれた経験値や体験談を学ぶことで、擬似的な知識を得ることは可能であります。 しかしその擬似的な知識を生きた知恵とする為には、学びで得た知識を自らの努力で実践する必要がある。 此処に経験の無い知識と経験を通した知恵の違いが明らかに理解することが出来るのです。 前者(経験の無い知識)は一次元意識に埋没した魂心境であり、後者(経験済の知識)は一次元意識を克服した魂心境であります。 人類の時代性を押し上げる為には学問は有用な手段になります。 その有用な手段を繰り返し学習することで、知識は確かな知性を構築するのであります。 |