088 穢れとは気が枯れること
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自己限定(一次元意識)を魂心境のメインに持つものは、心の傾向性として妥協が多くなります。 その妥協点は自意識が支配していて自らの個人的な限界が妥協点となっています。 常に利己心が物事の基準である為、それ以上の努力をすることもなく、それ以下の精進も殆ど有り得ないのです。 魂心境を一次元意識に凝り固めた人間はマイペースな自我流が多くなりがちで、自分が気に入るものにしか興味を示さない傾向があります。 そして自分が気に入らないものには近付きもせず(気付こうともせず)関わりさえ持とうとしないのが一次元意識人間なのです。 こうした一次元意識人間は人生に興味(目的意識)が無くなると廃人の如き性格になってしまいます。 個人主義の末路は孤独な廃人です。 遣る気も本気も負けん気さえも起こらず、根気が見当たらない廃人となるのです。 これは好き勝手に生きてきた一次元意識人間のB面(裏面)であり、無意識・無気力・無責任の代名詞のような性格に支配されるのです。 人間にとって穢れとは気が枯れることであり、遣り甲斐や生き甲斐が無くなると、魂の奥底から溢れ出す生命力が一時期停止するのである。 生命の聖泉は本来は無尽蔵なる生命力であります。 その無尽蔵なる聖泉に自ら蓋を閉めて、溢れ出す生命力を枯らす行為が自己限定なのです。 気持ちが枯れば気力は湧かず、何も成さざる廃人に待っているものは、個別意識の終着駅である精神の物質化であります。 罪穢れは人間の存在自体を危ぶみ、生命の枯渇は未来を閉ざす自滅行為に繋がっています。 人間は誰もが夢と希望を魂に懐いて地上世界に降り立ったのです。 どの様な人間であれ必ず生まれ出た理由があり、今を生きる命題があるのです。 人生は明るい未来(理想)を呼び込み引き寄せる為にあり、その日々の努力精進の中に大切な意義が隠されているのであります。 |