094 個我尊重には総意なし
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悟りには正しい進化の段階があると言うことでした。 その正しい進化の段階で最も大切な基礎となる部分は、自己限定の殻を打ち破る小悟の初期設定(魂心境)であると言うことでした。 個人的な才能の追求は、自己自身の限界が今世での極みになります。 その個人的な限界は、得てして肉体的な衰えと共に訪れます。 人間の意識から霊的感性が失われたなら、人間の肉体は単なる物質の塊になってしまいます。 しかし本来の人間の在るべき姿は、肉体的な意識を超越した霊性人間こそ人としての本来の姿であります。 霊性人間は意識が高揚する毎に、肉体的な制約を超越することが出来るのです。 自分一人だけの幸せ追求は肉体的意識が限界であるが、他者の気持ちを配慮した社会奉仕の心になれば、肉体的な制約を超越することになります。 何故なら個我(個人的な思惑)尊重には独善独我に意識が帰結するが、それを何処まで極めたとしても総意には成り得ないからであります。 総意側に意識が無いと言う事は、真実の愛が共存出来ないと言う事である。 総意側に意識を飛び込ませることが出来るなら、三相(時期・場所・人間)を弁えた他者配慮が可能となるのです。 そこに自意識だけの見解を押し通すなら、どれだけ指摘内容が鋭くとも単なる独善であり独我である。 個人の意識は総意には成り得ないのです。 むしろ個人の拘りや囚われを解放する事で、そこに本当の総意が芽生えることに成るのです。 だからこそ自分が…自分が…と、自分の我(意見)ばかりを押し通す人間は、未だ一次元意識に魂心境が停滞したままの自己限定人間であると言う事であります。 個人的な知識を多く持ち合わせていても、その知識を相手の現状に合わせて使い分ける事が出来なければ、未だ自己限定の殻(一次元意識)に閉じ籠ったままの迷妄者であると言うことです。 |